阿部正吉(あべ・まさきち)さん

昭和
 8年12月23日
38年   毎日放送映画                  入社
39年   東洋シネマ                  入社
43年      太陽企画                   設立


主なCM作品:
「東芝家庭大工」「山形屋の海苔」「デンターライオン」
「エメロンシャンプー」「東洋水産」「キリンビール」
「トヨタコロナ」「小学館・ピッカピカの一年生」等々




 この後ですね、NHKの大原(誠)さんっていう人と付き合っていくんですけども、『野良犬』っていう、黒沢明の『野良犬』と全然違って、僕の書いたのは、当たり屋っていうんですけどね、車に当たっていって、銭をゆする男の話なんですけども。「創作劇場」でやったね。
※ (昭和37年7月14日 NHK教育テレビ21時~21時45分) 

 これは社会問題だったんで、NHKでも新聞やなんかに出したりしてね。社会的な問題をドキュメンタリータッチで作るのは珍しいわけですね。生放送時代ですから。
 外にカメラ持って行って撮影もしたし、それから16mm(フィルム)でいろんなものを撮影するんですね。ニュース用のフィルムしか無いんですから。

民放でもお仕事されたんですか

 商業放送も増えると番組もどんどん増えますから、テレビの番組を書ける奴っちゅう事で、お陰様でなんとなく、或る程度おまんま食えるようになっていったんですけどね。
 ラジオ東京テレビ(現TBS)に移っていった岡本ラブ彦さん、よしひこ、愛彦って書くんですけども、ラブさん所の若い人たちが何人かいまして、ラブさんの穴埋めの番組やってたんですけど、『屋根の下に夢がある』(昭和34年4月16日~ 木曜20時半~21時)とか、ホームドラマみたいな、子育てが大変な奥さんの話とかね。そんなのチョコチョコ書いてたんですけど。

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※ 昭和34年4月16日付読売新聞


 商業放送が出来たお陰でテレビの台本が増えたと。そしたらば、商業放送ですから「電気広告塔」と言ってたわけですけども、朝から晩までコマーシャルが入らない番組は無いわけですね。これもまた生コマーシャルでしたよ。
 そうすると、僕ら台本屋、ホン屋って言うんですね。 ホン屋っていうのは最後まで、放送終わるまでくっついてますから、現場に居るわけですね。
 (広告代理店として)電通さんが担当でやってますと、そばにいますからね、電通さんがね。
 電通には「ラジオ・テレビ企画制作局」、ラテ企制っていうのが有りまして、そこの人たちが台本書いたりなんかして番組作っていたわけですね。

 広告をやるために番組を作っていたわけですけども、今で言うコピーライター、その当時は広告文案屋って言われてましたけどね、その文案を書くのは電通のラテ企制局の人がやってたんだけども、現場へ来るとタレントが「このセリフでは…」とか有ったりしてね。
 それからクライアントですね、広告主が「なんかパッとしないから、ちょっとドギツクてもいから、もう少しキツイのねえか」なんてことになっちゃう。
 で、「おいホン屋、ちょっと来て」とか言われて、注文で直したりしたんですよね。 
 すると原稿用紙に、3行とかせいぜい5行ですよ。 15秒とか30秒とか。あの頃60秒とかも結構ありましたが、それでも原稿用紙一枚に収まるんですよね。

 それを書いて採用されたり… 採用されたって言うよりも強引に、ラテ企制局長に「こういうこと書け!」って言われて、「はいっ」て言って、局長の言う通り書いて、採用されてそのまま放送されちゃって。
 そしたらわりに…、判りやすく言うと一万円札をポンッと出してくれてね。現金で。で領収書。「阿部、お前の名前書け」。でハンコなんか無くたって「拇印でいいよ」。
 その当時、僕なんか30分のドラマ書いたって、せいぜい一万円ですよね。すると、30分のドラマ書くんじゃ恐ろしい程の手間暇かかるけど、たった5分か10分考えて一万円っていうのはね、「これはいい仕事もらえた!」。言っちゃ悪いんだけど(笑)。

 で、その頃、「カマーシャル」 っていうの御存知かしら。いま日本語で「コマーシャル」でしょ。あの当時はね、英語読みなのかな、「おいカマーシャル! カマーシャル屋!」って。「いや私ホン屋です」 「なんでもいいや、カマーシャルこれ書け!」って言われて重宝されましてね。
 「こんなイイ商売ないな~~~」って思って、私はコマーシャルの方、今で言うコピーライターですね、結構パッパッパッパッやってって。
 やがてコマーシャルっていうのが本格的になりまして、35mmのフィルムで撮影するようになるんですね。今でも35mmで撮って、ビデオにして、勿論デジタルにして放送してる場合が有るんですけども。 

 カマーシャルっていうのは放送局の命ですから、大変にギャランティも良かったし、ドラマなんか書いてたら一週間も十日もかかって、やっと出来上がって(苦笑)。
 こっちは5分か10分で出来上がって、こんな効率いいの無いなと思って、コマーシャル屋になって、たまたま縁が有って毎日放送映画っていう会社が有りまして、そこが東京支社っていうの作ったわけですね。それでそこの人に面会する事になって、勤めろっていう事になって。社員って言うか契約社員ですけどね。

その前に『テレビドラマ』という雑誌の編集をなさってらしたとか

 台本書きやってる時に、台本ったって、さっきも言ったように、女房が出来て、生活裕福に出来るほどのお金にはなんなかったからね。カマーシャルやる前は生活費を稼ぐのに一番良かった。
 そしてたまたま僕も、岡本のラブさんなんかとお付き合いさせてもらって、和田勉ちゃんなんかともお友達付き合いしてもらってましたから。
 彼らの作った台本を載せてくれって言うから載せて、写真とか載せて、私はあの人たちの宣伝マンをやる代わりに、あの人たちは私の資料を提供してくれたり。

 ついこないだラブさんの集まり(筆者注:十三回忌か?)が有ったんですけど、TBSの人たちが中心になってやったんですけども。そん時、僕よばれて行ったんですけど、そのくらいラブさんと付き合いが有ったのは、結局そういう雑誌をやってる時に… 並河(亮)さんっていうテレビのオーソリティの先生とか、雑誌をやったおかげでね、放送局の名だたるディレクターやなんかとも、お付き合いして。

 彼らも雑誌に載るという事はステータスになるわけですね。で、私の方も有名な演出家の有名な作品、『いろはにほへと』だとか『私は貝になりたい』だとかね、岡本さんの。それ全部載させてもらったりして、お互い助け合い運動やってましたよ(笑)。
 で、志賀信夫さんがメイン評論家として毎号毎号書いてもらってね。 ついこないだ(2012/10/19)亡くなったんですけども。
 あの人も福島県なもんでしたから。福島県マスコミ会のメンバーとして一緒に色々やってたんですけどね。 

drama
テレビドラマ創刊号


この稿は 2016年6月26日に電話で伺ったお話を元に再構成させて戴きました。