萩勇(はぎ・いさむ)さん

昭和
 8年11月 5日
29年12月 近畿広告ラジオ・テレビ部            入社
35年11月 近畿広告から大広へ社名変更
        第一企画大阪支社制作局長に          転出
        仙台支社長、大阪支社長、本社人事・総務局長  歴任
平成
 4年    富山チューリップテレビ大阪支社長として    入社
        本社取締役、業務局長
10年      役員定年にて                 退社



大広時代
ラジオ番組制作、テレビCM企画演出
テレビまんが「ロボタン」の制作プロデューサー等

第一企画(現アサツーデイケイ)時代
CMプロデューサー
TBS系テレビ番組 代理店担当プロデューサー




萩さんが手掛けられたCMでご記憶に残っているものを教えて戴けますか

 コマーシャルで思い出すのは、積水ハウスのコマーシャルですね。歌は今でも使われていると思いますよ。
 積水ハウスと大和ハウスは関西の二社ですから。

 積水ハウスが音楽番組を提供したんですよ。
 始めのは忘れてしまいましたが、二つ目は神津善行さんの『みんなで歌おう』なんですよ。 

(筆者注)
忘れたと仰る一つ目が、神津善行さん中村メイコさん一家による
『ゆかいな音楽会』の事と思われます。



「みんなで歌おう」は昭和30年代にやっていた番組の復活ですね

 そうなんです。2回目の『みんなで歌おう』なんですよ。
 それは(ゆかいな音楽会と)同じ枠で、番組を変更したんでね。水曜の7時半から8時じゃなかったですかなあ。
 なぜ水曜日かというと、水曜が積水ハウスの定休日なんですよ。定休日なんで、お客さんにゆっくり見て戴きましょうと。井上順とね、尾崎紀世彦、千葉紘子、三人の歌手が司会でですね。

 
「みんなで歌おう」が復活した理由というのは御存知ですか

 TBSの企画でしょうね。これ全てTBSからの案なんですよ。
 次の番組はこうなんですけど如何でしょうかと、プレゼンテーションするわけですね。積水ハウスに、TBSの編成が。 
 毎週私が立ち会いに行ってましたけどね、収録に。

 
何か覚えてらっしゃる出来事とかございますか

 尾崎紀世彦はちょっと生意気に取られるところが有って、TBSスタッフのウケがあまり良くなかったんですよ。天才的なシンガーですけどね。元々ウエスタンですけどね。
 僕なんかは彼は大成するだろうなと、どちらかと言うと応援する方なんです。 

 
萩さんの一番最初のお仕事はなんですか

 僕らの時代は全部ラジオですよ。民放が出来たのが昭和26年ですからね。
 テレビは(関西では)最初は大阪テレビなんですよ。OTVなんですよね。(昭和31年)

 
その頃からテレビCMをやってらっしゃいましたか

 僕はラジオ専門でやってたんですけど、我々の会社(大広)の中のね、テレビ制作部というのは(OTVの仕事を)やってました。
 我々は関わってませんでしたから。 お得意さんは、大体9割9分ラジオのお得意さんですから。テレビのお得意さんって無いですもん、その頃は。

 
萩さんが最初にテレビをやられたのはなんでしたか

 僕はエースコックなんですよ。エースコックの前身がね、エース食品という名前でしてね。テレビのコマーシャルはエース食品が初めてなんですよね。
 それまでエース食品はラジオでやってたんですよ。それがテレビに放送するというんで、扱いは大広で有りましたから。そのコマーシャル制作を営業が持ち込んできたんですよ。

 
それは番組提供という事でなしにCM単発ですか

 CM単発で。 勿論、番組提供用ですよ。ですから今みたいに30秒とかでなくて、最低1分ですよ。60~90秒。
 当時エースコックも色々提供してましたからね。リピート番組(再放送)なんかで安い放送時間帯の、例えば昼間の3時4時という、そういう所へ流してたんです、始めは。
 でも、徐々に製品が売れ出してくると、 ゴールデンへ持ってきたりして。

 
ワタクシが知っている範囲ですとまぼろし探偵とかエースコック提供でした

 そうです、まぼろし探偵。やってました。あれはリピートじゃなかったですか。


他にご記憶に残っているCMはございますか

 仮面ライダーやってた藤岡弘、。彼が新人の時に、グリコのコマーシャルに…
 もう一人新人の女優さんを使ったんですよ。名前失念しました。有名な人ですわ。 
 これはね、1分のコマーシャルですわ。昭和44年か45年くらいです。ロボタン終わってからグリコのコマーシャル担当しましたからね。
 45年くらいですかね。赤白のチョコレート。新発売の。だいぶ金かけて。当時、二千万か三千万使ってグリコの役員に怒られたんですよ。


海外で撮られたという事ですか

 いや。国内で。赤軍派、白軍派でですね、藤岡弘は男性の、白軍のチーフで、女の子は花魁(おいらん)の衣装を作って、オープン(セット)でやりましたから、金かかったんです。南北戦争の雰囲気を出そうという事で。大砲用意して。
 それはグリコの当時の大作だったですね。

(筆者注:)
ほぼ同じ頃の藤岡さんのグリコ15秒CM動画が現在のところYouTubeに存在します。
残念ながら女優さんはよく見えません。
https://youtu.be/d7FuSU8Fjmk?t=144


ロボタンの時代というのは萩さんにとってどのようなものでしたか
 
 私はまだ二十代後半ですからね。無我夢中ですわね。我々の時代は先輩がいないんですよ。幸か不幸か。
 八田先輩いるんですが、八田先輩もわからないこと多いんです。
 我々の時代と言ったらパイオニアの時代じゃないですか、コマーシャルも含めて。


そういう面白さは有ったんじゃないですか
 
 勿論そうです。
 当時コマーシャルなんかは大林宣彦ね。彼なんか始め 、グリコのコマーシャル来ましたから、東京から。
 彼は当時から才能ありましたね。
 画面を6×6、36等分にしてね、 これ現像が大変なんですよ。コイツ馬鹿かと思いましたけど、才能ありました。金は物凄くかかったと思うんですよ。
 
 江崎利一(えざき・りいち)さんていう創業者いますよね。
 (グリコの)役員が商品の担当を持つんですよ。チョコレートは誰々さん、アイスクリームは誰々さんと。
 それが創業以来のビスコは江崎利一さんが担当なんですよ。
 川口松太郎の息子の川口浩、その嫁さんの野添ひとみさん、女の子が二人いましてね、 その時は旦那はいなかったんですが、野添さんのマンションの近くに行って撮影しましたよ。

 ところが、野添さんに出演の交渉をする時に、ライオンがキャラクター契約を持っていたんですよ。何年か。
 こっちは野添さんと娘さんが必要なんで、野添さんを貸してくれと、ライオンの宣伝部に僕が交渉に行きました。 
 そしたら、その年の何ヶ月か先に契約が終了するから、萩さん、どうぞ使って下さいとなったんですよ。ラッキーだったです。

 向こうはライオンの歯磨きとかでしょ。こっちは甘いものでしょ。 商品バッティングするんですよ。そういう事も考えて我々はタレント交渉しなきゃなんないんです。タレントがどういうコマーシャル出てるかどうかね。
 後に社長になりましたけどね、その宣伝部長は。「萩さん、野添をどうぞ使って下さい」「間違い無いですね」「間違いありません」 って。
 
 藤沢薬品で船越英二さんも撮りました。
 彼は(昔は)大映の大御所だったから、あまりCMに出なかったんですよ。
 それが何故、CMに出たかというと、 今の息子の英一郎を、アメリカへ留学させとったんですよ。 留学の費用が欲しかったんですよ。後で思うとね。
 僕は息子との付き合いは有りませんからね。もし、なんかで会ったら、親父さん、あの時は大変だったんだよと教えてやりたいですね。


この稿は 2016年6月7日に電話で伺ったお話を元に再構成させて戴きました。