日高欽治(ひだか・きんじ)さん

昭和
12年12月13日
35年 3月 日本大学芸術学部 映画科 撮影専攻コース 卒業
    4月 株式会社東映教育映画 入社
36年12月 株式会社大広 東京支社 放送制作部 入社
46年 7月 退社
    8月25日 株式会社クリエイティブ・オフィス・Z 設立

日高欽治さんのフェイスブック


 愛称・欽さんであり、ご本人から当方にも、そう呼んで欲しい旨を申し渡されているので、ここではそう呼称させて戴きます。

 最初は本家ブログの方の『マルマン深夜劇場』のコメント欄にコメントを下さり、それから当方宛にメールを下さって、直接会いたいとの事でした。

 当方は北関東の人間なれど、ちょうど直近の日曜に渋谷に用があるので上京する旨を伝えると、では渋谷で会いましょうという事になったのです。

 非常に唐突な感じの申し入れでしたが、メールに、カルビーの「やめられないとまらない」も作ったと書かれていたので、検索してみたら、親族の方がその事でのカルビーに対する不満をツイートしていたので、なんとなく察知しました。

 渋谷でお会いした時は駅前の喫茶店で話しましたが、やはり、話の殆どはその件でした。
日本テレビのDONという番組で、かっぱえびせんの「やめられないとまらない」という、あまりに有名な惹句を扱い、 中の再現VTRで、それが広告会議で誰からともなく 一人二人と出して作られた言葉のようになっていたのですが、それを見て、欽さんの周りが、話が違うとなったそうです。

 欽さんは周りの人たちに、「やめられないとまらない」というあの有名な惹句は自分が作ったものだと語っていたのですから、周りの人たちが、どちらの話が本当なのだとなったのでしょう。
 言ってみれば、欽さんの名誉にも関わる事になりました。

 それまでは、そんな名誉やらなんやらに全く関係無く生きてこられた欽さんでしたが、この機会にと、カルビーの方に、実はこうなのだと説明されたそうです。

 しかしカルビーの方は、欽さんの話を明確に否定もしませんが、認める事もせず、現在、その件で欽さんは弁護士も交えてカルビー側と折衝されているという内容でした。

 ワタクシが客観的に思いますに、おそらく欽さんの話は本当でしょう。
 しかしカルビーは大企業ですから、安易にそういう事を認めてしまうと、権利関係で損失を被る事を怖れているのだと思います。
 ですが、この「やめられない、とまらない」という言葉は、日本広告史上でも十指に入る名文句で、だからこそ平成の世のDONという番組でも扱ったのでしょう。
 そういう言葉の真の産みの親がハッキリするという事、そして、その事を言祝ぐ事は、カルビーという企業の大いなるイメージアップに繋がると思うのですよ。

 これだけの名文句ですから、本当に欽さん以外に俺が作ったのだという心当たりが有る人がいれば、例えばご家族・ご親族でも良いので名乗り出られるべきです。
 とにかくこの件で情報をお持ちの方は、コメント欄でもメールでも、お寄せ戴ければと思います。

 欽さんの話では、昭和39年のテレビCMを大広(東京)で受け、その際に欽さんが作った言葉なのだそうです。
 特に突飛な発想や背景が有った訳でもなく、昔から煎餅類は好きだったので、ツマミながら考えていて、なんかやめられないな、とまらないな、と感じたのをそのまま宣伝文句にしたとの事でした。

 後に電通が担当する事になり、その際に有名なCMソングが出来て、その中でも使われた言葉なので、一気に知名度が広がりました。
 欽さんも、かっぱえびせんの売り上げが伸びた事には、電通の功績が大きかった事も認めてらっしゃいました。

 そのCMソングの作詞表記は、「電通」となっております。
 そしてウィキペディアの「伊藤アキラ」(著名な作詞家)の項目に、いかにも伊藤アキラさんが考案したような記述が有ります。
 欽さんのお話では、伊藤アキラさんに確認を求めたところ、たしかに伊藤さんが担当はしたが、その時点で「やめられないとまらない」という言葉は既に使われていた、但し自分も誰が考案した言葉かは分からずに使った、という事を認めて下さったそうです。
 ですから、真の作詞家は伊藤アキラさんで間違い無いとしましても、「やめられない、とまらない」という有名な惹句には、その時点で先人がいた事は間違い無いのです。

 カルビー側も当然ですが、昭和39年の開発時点の担当が大広であった事、欽さんが担当していた事などは否定のしようも無いでしょうし、確実な証拠が出るまで一拍おいた表現になるのはやむを得ないとしても、こういう(有力な)話が有るという形で歴史に組み入れれば、かっぱえびせんの話もまた盛り上がると思うのですよね。

 欽さんも内心ではかなり納得いかないものが有るようで、渋谷でお会いした時には、 どうしてもその件が中心で終始しました。
 その事を気にされていたのか、後ほどまた連絡を下さり、今度は欽さんの方から当地へ赴きたいとの申し出が有りました。

 勿論ワタクシは、わざわざ北関東くんだりまで来て戴くなんて畏れ多いとの旨を申しましたが、嫌で行くのではない、昔の話を解ってくれる人だから話を聞いて欲しいのだと仰り、何度か固辞しましても堅くそう仰るので、二度目は当地でお会いする事になりました。

 その際はファミリーレストランでお話を伺いましたが、なにしろ田舎なので、駅から徒歩10分は軽くかかる場所です。
 北東京からこの北関東まで、待ち合わせの11時より前に到着し、名も無き男にわざわざ会いに来られ、往復30分のファミレスに同行する。
 なんと活動的な昭和12年生まれなのでしょう。ワタクシもこのように年を重ねられたらと感じました。

 二度目は最初の時よりも、色々なお話を伺えました。
 日芸で映画科に入ったのはカメラマンを目指していたから。
 監督よりもカメラマンの方に憧れが強かった。
 そして卒業後は東映の教育映画の方に入り、しばらくは昆虫の記録映画などを撮っていた、等々。

 東映教育映画から大広入社までの間に、山田耕筰先生の事務所にお勤めしていた時期が有るそうで、そして、この頃にお付き合いしていた最初の奥様との結婚で、山田耕筰先生が仲人を務めて下さったとの事です。
 歴史上、と言うよりも伝説上の人物の登場に、ワタクシもすっかり驚かされました。

 そして大広(だいこう)という広告代理店に入り、件のカルビー始めマルマンや様々な広告を担当。
 味覚糖チョコハイディーのCMでは、当時人気絶頂のスパイダースを起用しました。
 ヒット曲「風が泣いている」を使用したとの事ですので、昭和42年7月頃の事と思われます。
 ソニービルは出来たてで、まだ工事現場も有り、けっこう危険な事もスパイダースにさせたという事です。

 大広に在籍中、いわゆる「内職」も多く手掛けられたとの事。
 ワタクシらの世代に知名度が高い『ロボタン』というTV漫画は大広が中心となった番組でしたが、その脚本も、実質は欽さんが書いたものが幾つも有るそうです。
 しかも、当時は他で儲かっていたから、知人に助太刀したそうした仕事では、一銭も貰わなかったとか。
 とにかく当時は、かなりお稼ぎになっていたらしいです。

 更にクリエイティブ・オフィスZ(ぜっと)を設立し、浦野光さん、武藤礼子さんなどが所属しました。
 このオフィスZでは、ゴルフの「太平洋クラブマスターズ」等々を手掛けられたとの事でした。
 Zというのは、Aを目指していこうという意味合いだったそうで、いきなりAだと自称してしまわないあたり、日高さんのお人柄がよく出ていると思います。

 最初の奥様とは4、5年で別れられたそうですが、その後、二人目の奥様とは添い遂げられたようで、その方は1990年に、44歳の若さで亡くなられたそうです。
 その頃、会社は仲間の裏切り行為で傾き出したり、ご母堂の老いによる症状の介護をしたり、かなり大変であったろう様子を、友人だった ばばこういちさんが雑誌記事にしており、ワタクシもコピーを頂きました。

 ばばさんという人もワタクシはテレビの中でだけですが、信頼できる人のように感じておりましたし、その人が欽さんの事を書いているのを見て、なるほど、ワタクシがお会いした欽さんは、昔から、広告業界のような仕事をしている時から、こういう人だったのだなあと感じました。
 ばばさんの記述を、一部抜粋してみます。
広告会社にいた時の日高さんはどんなイベント企画でも誠心誠意取り組んだ。
欽さんのように一生懸命やったんじゃあとても商売にはならないだろう、と陰口をたたいた人も少なくなかった。
その誠意を裏切る者もいたが、そんな目にあっても日高さんは相手を誹謗したり、憎悪したりすることはなかった。
そんな人柄が生き馬の目を抜くといわれるこの世界では、逆に長く愛され、尊敬されてきた所以なのだろう。
 昭和12年生まれという御年で、この北関東くんだりまで、これだけの経歴を持った人が、名も無き一ブロガーに会いに来る。
 誰しもが出来る事では無いでしょう。
 しかし、そうしたお人柄は、ああした業界にいらした時からだったのです。
 ともすれば派手な印象を抱いていた代理店マンでしたが、こういう人もいらしたのだなあという思いです。

 ちなみに、当時から酒・煙草をやらなかったというのにも驚きました。
 今は、お酒は少し嗜まれるそうです。(40歳からとの事)
 ボディビルをやられていたそうで、今でも体つきは、ジャケットの上からでも結構な肉付きが想像できるお体です。
 若い頃には、三島由紀夫と隣り合った事も有ったとか。

 欽さんがワザワザ当地までいらして下さった事にお応えする、と言える程の物ではまったくないのですが、なるべくワタクシに出来る限りの分量で記述したくなり、そうなると、今まで企画を温めていた、この昭和テレビ探偵団を踏み出すしか無いだろうと、今回の形になりました。

 欽さんに引っ張って戴いたこの企画、 今後も末永く、様々な人々をここに刻んでいけたらと願っています。


2016/6/10 追記
 その後、日高さんが6/9に伊藤さんに確認を求めましたところ、打ち消し線の部分を以下のようにして貰いたいとのご指摘が有りました。

「受注したときは既に出来ていた。広告代理店が作ったかはわからないが、既に出来ていた」