東宝・松竹系ダンサー達が切り拓(ひら)いた桃艶番組の大地

 
 
    テレビ史最初のエロ番組は何か
 
    基本的な知識を書いておきますと、テレビの本放送は、昭和28年2月1日に日本放送協会(以下NHK)が、最初に実現させました。続いて日本テレビ放送網(以下NTV)が、同じ年の8月28日に、民間放送として初めて本放送を開始させました。
 
    昭和28年と言いますと、あの、東京中が焦土と化した敗戦から、まだ十年と経っていないのです。そんな世にテレビの放送を始めるなど、多くの人間は時期尚早と考えておりました。戦前からテレビを研究していた当のNHKがそう考えていたのですが、様々な理由で、NTVが独断専行の構えを見せたために、NHKも沽券に関わるとばかりに対抗し、予備免許でこそ先を越されましたが、本放送ではなんとか意地を見せつけた格好となり、NTVを先んじる事が出来たのでした。
 
    NHKは今に至るまで一貫して、お堅い局です。これは公共放送なのですから、当然の立ち位置です。尤も、後に触れますように、それとてもエロ描写と完全に断絶し続けて来ている訳でもありません。 
    それはさておきまして、商業放送たるNTVの方も、当初はテレビでエロ描写などは想像もしていなかったでしょう。時代的にも、まだまだ性方面の描写には寛容でなく、映画ですらヌードという描写は実現していない時分です。
 
    ところが、昭和30年4月1日に開局した関東第三局となるラジオ東京テレビ(後のTBS、以下TBS)が、早くも禁断の扉を開いたのでした。
 開局から丁度一週間目の4月8日(金)、昼の12時10分より30分まで、『日劇ミュージックホール』という番組を放送したのです。
    「昼の」12時、しかもテレビの草創期ですから、それがその日の最初の番組として。
 まだ昼休みと、夜の数時間しかテレビの放送される時間帯が無かったのですが、その劈頭(へきとう)で、日劇ミュージックホールのダンサーが踊る番組を放送したのでした。これは当時、「テレビでストリップを放送した」と、少しだけ騒がれたようです。
 
    尤も、この番組に関しては、テレビを見ていた人間自体が非常に稀少な時代だったため、実見した人間は非常に限られていたと思われます。
 大衆が見る事が出来たのは、精々が街頭テレビ。その街頭テレビは殆どがNTVやNHKの設置した物で、当然、それぞれの局を映していたでしょう。新興のTBSを見てくれる人間など、本当に限られていたはずですが、だからこその形(なり)振り構わぬ所業だったと考えられます。
     以後は、フジテレビもNETも、何処(どこ)よりも東京12チャンネルも、新興の局が視聴率を手早く稼ぐための手段として、エロ番組に活路を見出し続ける事となっていくのです。それらは後々に語って参ります。
 
    そんな訳で、どんな番組だったかを知る者は非常に少ないのですが、関東のストリップ劇場の老舗・フランス座を経営していた松倉宇七の倅である、松倉久幸の著書『歌った、踊った、喋った、泣いた、笑われた。』(ゴマブックス)から孫引きしてみます。    
         昭和三十年四月一日に開局したラジオ東京テレビ(KRテレビ、現TBS)は、NHKや日本テレビが手を出さなかった新分野として、ストリップを電波に乗せる冒険に着手した。なんと開局二週目からレギュラー番組として『ミュージック・ホール』をスタートさせたのである。(筆者注:正式題は『日劇ミュージックホール』と思われる)
         第一回日劇ミュージックホールの人気ストリッパー、奈良あけみとR・テンプルが出演した。R・テンプルはアクロバットダンスから転向しただけに、危険なくらいの過激なポーズを見せ、奈良あけみは美貌で売っていた。(中略)豊満な肉体を持つ奈良のダンスでは、カメラがきわどいところをクローズ・アップにし、R・テンプルの過激なポーズでは、カメラが体の露出部にぶつからんばかりに接近したため、『顔をそむけたくなるような光景』だったという。
         もちろんミュージックホールの舞台ではなくスタジオからの中継であったが、あまりの反響に、『テレビにも自主的な放送規制が必要』との声があがった。だが、そうした声を取り入れつつ、ストリップは以後長くテレビ電波に乗りつづけることになった」(『万博とストリップ』)

(続く)