三浦さんは想い出のテレビ番組にとどまらず、昭和世相などもメモしてきてくれていました。
 話はそのような方向へと進んでいきます。こちらも、あらかじめ三浦さんが用意してくれた資料などを見ながら話していますので、文字起こしだといきなり話が飛んでいるように感じたりする部分も有りますが、情況をご想像の上で読み進めて戴きますようお願いします。



三浦一郎(みうら・いちろう)さん

昭和
31年 6月 2日


主な経歴:

(株)リコーの販社で17年間サービスマンとして勤務。
靴修理のミスターミニットに10年間勤務。
(株)ユニエイ(靴メーカーの請け負い修理)に4年間勤務。
 横浜市内の公立小学校で嘱託用務員として5年間勤務。




 
 

昭和世相

※ ここから三浦さんが用意していてくれた料金などの資料を見ながらの語り合いです
 
 
 銭湯は15円で入ってたの覚えてますね。


20円というのは覚えてますが、その前15円でしたっけねえ

 子供(小人・しょうにん)と大人の間で、小学生は「中人(ちゅうにん)」っていうので入れたんですよね。


都電は無かったですか

 目の前走ってました。


何線って言うんですか

 いや、何線って言うかね、3番とか8番とか言ってました。飯田橋と品川駅を結んでるやつと、中目黒から東京駅の方へなんか行くやつが走ってて、それは『三丁目の夕日』の中にも出て来ます。ちゃんと同じ番号使ってましたね。


車掌さんいましたね女の人が

 いましたねえ。バスもいましたね。


バスもいましたね。ワンマンバスなんて言葉が有ったんですから

 で、品川の駅からトロリーバスが走ってました、昔。


トロリーバスってなんですか

 上に電線が有って、電気で走るやつ。


昭和三十年代に無くなったんですかね

 だと思うんですけど、俺がいつも品川から、京浜急行で杉田に、うちの母方の姉の伯母が住んでて、遊びに行く時に、品川から電車乗ったり帰ってきた時に、道路の向かい側にトロリーバスのバス停が有って、そっからバスが出て行くわけですよ。
 あれ見て、「あのバス乗りたいあのバス乗りたい」って言うんだけど、一回も乗せてもらわないで終わっちゃいましたね。

 家で商売やってたから、親父が新橋に遊びに出て行く時に、子供をダシに使うんですよ。俺は2番目だったから、よく新橋に一緒に行ったんですよ。


ご兄弟はお二人で

 いや、3人。姉と私と弟といるんです、5歳ずつ離れて。
 で、姉はさすがに連れて行けないから、私を連れて行くんですよ。
 それで私を連れてパチンコやったり、あの頃ね、大人の遊びというとビリヤード。新橋ではビリヤードの球技場がいっぱい有って、スリークッションつって3回当てて球に当てるってのが好きで、やってましたよ。で、毎週週末になると、駅の前に場外馬券場が有ったんで。
 あそこに街頭テレビが有ったんですよ。新橋の駅前に。広場が有って、場外馬券場がそこに有って、街頭テレビが二つ有って。一個はカラーで、一個は白黒なんですよ。


昭和何年頃ですか

 ちっちゃい頃だから…昭和36、7年、7、8年の頃じゃないですか。


カラーテレビの本当に出始めですね

 で、カラーテレビはいつも閉まってて、いつも白黒のテレビだけが開くんですよ。
 で、競馬の中継をしながら、なんかね、ステージの下に馬券を買う窓口が有るんですよ。俺、ステージでなんかやったの覚えてないんですけど、下に馬券場が有ったの覚えてて、そこでみんな馬券を買って、テレビを見て、「当たった」「外れた」とか言ってました。


「カラー」「白黒」って書いてあったんですか

 親父に聞いたことあんですよ。なんでこっちは開かないんだって。
 そしたら、こっちはカラーだから滅多に開かないんだって言って。


お父さんは麻雀はやらなかったんですか

 やった。最後に辿り着いたのが麻雀で、お袋と別れる際に大喧嘩した時に、「俺に麻雀やめろって言うのは死ぬのと一緒だ」って。


昔のパチンコも行かれたんですね

 行った。台の上のボタンを押すと、上から女の人が顔を出して「ちょっと待って下さい」って。そういう時代ですよ。
 親父が明治の板チョコ何十枚も紙袋に取ってきた事ありますよ。暫くおやつに困らなかったですね。


無地の茶封筒ですよね

 そうそう。よく御存知で。


私もけっこう子供の頃から行ってましたんで

 土曜日とか日曜日とかいうと、戸田の競艇だとか、大井のオートレースとか。オートレースも好きで。オートレースに行く時は、新橋から乗り合いのタクシーが有って、何人かで行くんですよ。
 そのうち昭和39年にモノレールが出来て、大井オートレースのそばに駅が出来たもんだから、今度モノレールで行ったんですよ。


乗り合いっていうのは知らない者同志って事ですよね

 でも、だいたい顔見知りなんですよね。
 で、当時VIPルームっていうのが一般の観客席の上に有りまして、親父はそこで見てたんですよ。
 そこに行くとちゃんとカウンターが有って、中に女の子とママが居て、珈琲とかお茶とか紅茶とか出してくれて。
 で、俺は親父が競馬やっている間、ママとかお姉ちゃんに相手して貰って、ジュースを飲んだりホットケーキを食べたりしてました。


本当のVIPルームですね。当時ホットケーキなんて凄い食べ物ですよ

 あー、だけどね僕ね、新橋にしょっちゅう親父に連れて行かれたでしょ、ビリヤードと隣り合わせのビルに、洋食屋さんか喫茶店が有ったらしいんですよ。で、窓を開けると、厨房が丸見えなんですよ。いつもそこで作ってんのが見えてて、ビリヤードやってる人はそこから直接コックさんに、なんか作ってくれって頼んでて、それで僕はホットケーキを頼んで食べてたんですよ。

 
その頃に外でホットケーキ食べるなんて相当なものですよ

 お陰様で。商売やってて実入りいい時期が有ったんですよ。そうすると土曜とか日曜になるとタクシーで銀座まで行って、ニュー東京っていう出来たばかりのレストランが有ったんですよ。そこに連れてってくれて、こんな太いフランクフルトソーセージ、その頃まだね、他では食べられなかったフランクフルトソーセージを食べてましたね。
 他ではまだそんなの無かった頃に…

 
食べた時どんな感じがしました

 美味しかったですねえ。だって普通のお肉屋さんでは赤いウインナーソーセージしか無い時代に…

 
ワタクシなんて魚肉ソーセージしか食べられなかったですよ

 そうですか。赤いソーセージは有ったんですけど。
 それで、向かい側に銀座の不二家が有って、そこでお子さまランチみたいの食べるか、ニュー東京でフランクフルトソーセージ食べるのが僕の唯一のご馳走でしたね。
 

ワタクシなんてフランクフルト初めて食べたのは昭和50年代ですね
だから我々より10年くらい早いんじゃないですか 

 記憶としては昭和42、3年くらいにそんな時代が有ったんじゃないかと思うんですよ。

 
ニュー東京っていうのは結構いいレストランなんですか

 もう無くなっちゃったんですけど、恐らく昭和39年の東京オリンピックの頃に出来たビルなんですよ。(銀座)ライオンみたいなお店ですよ。ビールが飲めて、おつまみだとか料理が出てくる所で、食事が出来るっていう。


VANの人ってなんて言いましたっけ

 石津謙介さん。あの方の影響をモロに受けて、銀座が近いもんですから、大人になるにつれてボタンダウンのシャツだとか、ああいう格好に憧れたんですよ。
 洋服にはけっこう興味が有って、昔買ったそういう雑誌なんかもいっぱい持ってて、これが僕の買い集めたワードローブなんですけど。(下写真は三浦さんコレクションのほんの一部です)

van1van2


これみんなご自身でお持ちになってるんですか

 これだけじゃないんです。もっといっぱい有るんですけど。


こういうのって今プレミア価格とかついてるんですか

 いや、つかないです。これ全部、自分が好きで着てるだけです。
 これ昔のVANの洋服ですよ。20年以上前に買ったやつですけど、今でも大事に着てるんです。


そういう目的じゃないでしょうけど売ったら高いんじゃないですか

 全然。二束三文。こういうのはブランドにならないんですよ。


でも買った当時はかなりの値段ですよね

 いや、でも途中から古着屋さんで買ったりしたんで。
 今、自分のフェイスブックでアイテム載せてるんです。
 東京オリンピックのこと載せたりして。


ちなみに今度のオリンピックはどうですか

 2020年の東京オリンピックが決まった時に、国立競技場が無くなるっていうんで、見学ツアーっていうのが有ったんですよ。それに行きまして、たまたま毎日新聞の女性記者の方が同行取材で入ってらっしゃって。
 自分で開会式の創作実況をしたやつをデジタルオーディオに持ってたんで聞かせたんですよ。若い人だから、50年前の東京オリンピック知らないじゃないですか。で、誰が実況してるんですかっていうから「僕が作ったんです」って言ったら驚いて。帰りがけに、よかったらインタビューさせて戴いていいですかって、ここに載せて貰ったんです。(2013年11月7日夕刊)

 東京オリンピックのユニフォームは石津さんがデザインしたの御存知ですか。


そうなんですか

 たまたまウチの近くの東神奈川にいらっしゃる方が、昔、東洋の魔女のサイズを採寸して作ったってテレビでやってたんで、行って取材をさせて戴いて写真を撮らせてもらったんです。

 俺もYouTubeとかで創作実況とか上げたいなと思ってるんですけど。


娘さんなんかやってくれませんか

 アパレルに勤めてるんだけど、いま忙しくて全然やってくんないの、親のことなんか。
 べつにお金が欲しいわけじゃないんで、お年寄りの方が居る施設に慰問で回って、昔の懐かしい話をいっぱいして、思い出して貰って笑って貰えればいいかなと。


この活動もそうですけども 、ゆくゆくはそういう事をやりたいとワタクシも思ってます

 俺もね、それをいま一生懸命考えてて。


中にはNPOでやってらっしゃる方もいるじゃないですか

 あ、います?


いますいます。こういう事で記憶を思い出すというような活動で、デイサービスのような事をされている方はいらっしゃるようです

 俺もそれがやりたくて。
 戦争中の話も、お袋とか近所のおばさんから昔聞いた話で覚えてる事が幾つか有って、3月10日の大空襲の時、ウチのお袋は愛宕山のふもとに実家が有って、焼夷弾が落ちてくる中、命からがら宮城(皇居)の外堀まで逃げたって話で。
 上からアッチコッチ火がパーッと落ちてくる。M69集束焼夷弾ですか、あれが落ちて、あっちこっち火の手が上がる中、防空頭巾かぶって。
 お袋が言うには、慣性の法則ですよね、自分の周りにいるB29が落とす焼夷弾は、自分には絶対に落ちない。向こうから自分に向かってくるB29が落とす焼夷弾は落ちてくるって。

 あと戦闘機が墜落した時に、風防硝子が匂いガラスって言ってアクリルで出来てるもんですから、こすって擦りつけると甘い匂いがするんですよ。当時の子供達は甘いものに飢えてたんで、その匂いを嗅いだり舐めたりするっていうのを聞いて知ってて、その話をすると知ってる方は知ってるんですよ。よくアンタそんなこと知ってるねって話になって。

 僕の生まれた頃には戦後の爪痕がそこそこ残ってて、東京タワーのふもとに芝公園ってとこが有るんですけど、今は綺麗な公園になっちゃいましたけど昔は小高い山が有って、そこの脇に4つ穴が開いてたんですよ。それがなんだったかわからなかったんですよ。
 親に聞いたら防空壕の跡だよって。完全に穴を埋めてなくて。

 東部軍管区情報って知ってます? B29が来る時の警戒情報なんですよ、
 「東部軍管区情報東部軍管区情報目下京浜地区に侵入せる敵三機にして房総方面に新たな敵北進中なり本日来襲せり敵B29にして連続侵入して焼夷弾を投下せり」って、そういうのをお話しすると、経験されてる方は如実に思い出すわけですよ。

 あと昭和16年の太平洋戦争が勃発した時の開戦ニュースって有るじゃないですか。NHKの放送博物館でボタンを押すと流れるんですよ。それが耳にタコになって覚えちゃって。それを年配の方にすると皆さん記憶が蘇っちゃって、話が盛り上がるわけですね。


ワタクシの身の回りの話ですと戦時中の話は嫌がる方が多いんですよ

 そうなんです。難しいんですよ。していい方と、して悪い方といらっしゃいます。
 一番ソツ無く行くのは、戦後の話が一番いいんですよ。


でもやっぱり戦争中の話もこちらとしては聞きたいじゃないですか
だから本当に難しいですね 

 だから戦後の話、昭和30年代の話、ここら辺を上手く織り交ぜて、話が出来ると、自分でもお役に立てることが有るのかなと思ってはいるんですけどね。


もしYouTubeなどご自分のページをお作りになったらリンクは貼らせて戴きますので。それはウチの趣旨にも外れてませんから。ウチの影響力なんか全然ないですけど、リンクは貼らせて戴きますから、実現したらぜひ報せて下さい。 







この稿は 2016年8月11日に東京某所のロイヤルホストで伺ったお話を元に再構成させて戴きました。