とても有り難い事に、一般人の方からもワタクシと話がしたいというお申し出がございました。
 そもそも、この企画は、昭和30年代というテレビの黎明期を知る人々に、まだ記録装置も無かったが故に人の記憶の中にしか無い当時の番組の情報を、一つでも多く残しておいて頂こうという趣旨で始めたものです。

 そして、当初その対象としてワタクシが焦点を当てていたのは、あくまでも一般の、テレビの前の視聴者の人々でした。
 が、一方で、一般の方が応募されてくるのも、なかなか難易度が高いであろうと判断しておりました。
 それが初年度から参加して下さる方が出て来て下さったという事も、本当に望外の喜びです。

 今回の参加者の方は、厳密には規定の65歳には届いていないのですが、60の壁は越えてらっしゃるので、是非お会いしたいという事でお願いしました。
 では前置きが長くなってしまって申し訳ありませんでしたが、本企画初の一般参加者の回をお届け致します。


三浦一郎(みうら・いちろう)さん

昭和
31年 6月 2日


主な経歴:

(株)リコーの販社で17年間サービスマンとして勤務。
靴修理のミスターミニットに10年間勤務。
(株)ユニエイ(靴メーカーの請け負い修理)に4年間勤務。
 横浜市内の公立小学校で嘱託用務員として5年間勤務。




 

グローバル経済時代の負のしわ寄せ


三浦さんはここ(取材場所:東京)でお生まれになったのですか

 ここ、今いる所で生まれまして、ここで結婚するまで31年くらいは、ずっとここにいました。


いい所ですよねぇ

 いや、いい所って言いますけど、私が生まれた頃は、まだ地下鉄も走ってなくて、都電とバスだけしか無かったんで、結構そこそこ田舎で、そんなに開けたとこでもなかったんです。

 昭和39年の東京オリンピックの時に、4月くらいに日比谷線が開通したのを切っ掛けに、ここ凄く交通の便が良くなって、 どんどん開けてきて、バブルの頃には色んなビルが建って、土地の地上げだとか色々あって、ここに住んでいる方がみんな引っ越されて。
 だからそれまでは『ALWAYS 三丁目の夕日』と殆ど同じ状態で、あれのモデルになったと言われるくらいの。
 それで、あの映画を作られた阿部(秀司)プロデューサーという方が、この近所で昔遊んでた事が有ったみたいで、どうもここら辺を舞台にして、あの映画を漫画とクロスさせて作ったっていう風に私は伺ってます。
 ですから私も自己紹介の時には、『ALWAYS 三丁目の夕日』の舞台になった、東京タワーのふもとに住んでましたって形でお話ししてます。


いつ頃までいらっしゃったのですか

 丁度昭和64年、平成元年の頃まで。
 その頃に家内と結婚して、横浜に家をローンで建てまして、もう28年経ちます。
 だから、もうすぐ東京と横浜が人生の半分くらいずつになります。

 一番始めは石川島造船(IHI)というところに…、東京の豊洲っていう、今ミッドタウンになっちゃってますけど、あそこに東京第二工場っていう造船所が有りまして、高校卒業したあと一年半くらいいたんですけど、男の世界で女性がまったくいなかったもんですからつまんなくて、いやんなって辞めちゃいまして、丁度その頃5歳年上の姉が富士ゼロックスに勤めてる義理の兄貴と、結婚したくらいだったんですよ。
 私が家でブラブラしてたら、そんなブラブラしてるの良くないから、うちの会社でアルバイトで働ける部門が有るんで、そこでちょっと働かないかと言われて、で、富士ゼロックスのアルバイトを二年くらいやりまして、でも結局社員になれないもんですから、ライバル会社のリコーという会社が有ったんですが、そのリコーの販売会社の方に就職しまして、17年くらいはそこで仕事してたんですよ。

 

そちらはどなたかのご紹介ですか

 いや、自分で見つけました。
 ただ、今と違って職探しもそんなに難しくなくて、新聞とかに求職欄とか有って、いっぱい出てたんですよ。 で、そこがたまたま、ゼロックスでアルバイトしてたから、複写機の仕事で、サービスかなんか出来ないかなと思って、そこに入りまして、17年くらい勤めたんですけど、色々ありまして、行き詰まったのを切っ掛けに、家内と結婚して5年くらい働いてたんですけど、まったく関係無い靴修理の仕事をしたくて、ミスターミニットという、靴修理の業界では一番大手なんですけど、そこで10年くらい仕事してたんですよ。


あれ、手先が器用じゃないと駄目ですよね

 始めのうちは結構苦労しました。 でも慣れると、あとはもう自分のやる気ですよ。あと探究心。 勉強する気が有ればそこそこ出来るんですよ。
 で、その時に、始めに配属されたのが港南台の高島屋だったんですが、半年くらいそこに通って、そこで二十年くらいやってるベテランの方に一から教えて戴いて、合い鍵の複製と、靴の修理を教えて貰って、仕事を覚えたんですよ。

 あそこって、今でこそテレビ番組で紹介されるくらいの会社になったんですけど、会社自体が外資だったものが、本家本元が株を全部UBS・スイスユニオン銀行に売っちゃったんですよ。
 そこから流浪の旅が始まりまして、銀行が株主になっちゃうと、あとはもう、どっかに売りたいわけですよ。 



しかも銀行と言っても外国の銀行ですもんね

 で、売るために良い業績の状態にするために採算が取れない店は全部リストラで、首切りが始まって、 紆余曲折ありましたが会社がスリムになりまして、今度は業績最優先で、売り上げ至上主義になっちゃったんですよ。



正にグローバル経済時代の弊害が一気に来てしまったんですね

 そうなんです。
 結局、毎週毎週の売り上げが前年対比で売れてないと、すぐにたらい回しでお店を移動させられたりとか、色々と冷や飯食わされる事もあって、もう嫌気が差して、その後5年くらい他の会社で働いてたんですけど、で結局、流浪の流浪の旅の最後の最後の終末が、退職するまでの最後の5年間を、横浜市内の公立小学校の嘱託用務員をやってたんです。
 で、最後の五年目の夏休み、残り半年でもう任期満了、なおかつ年も60、定年と一緒。 
 なんとか、この学校で足跡を残せないかなと思って、NHKの『世界ふれあい街歩き』っていう番組ありますよね。 あの番組のイントロの所で、街の紹介みたいな事をナレーションがやるんですね。それがちょっと気に入ってたんで、自分の学校をその番組を真似した形でもってBGM流しながらデモテープ作ったんですよ。

 その後、一本だけじゃつまんないなと思ったんで、NHKで昔からやってる『ひるのいこい』っていうラジオ番組が好きだったんで、それをBGMに学校を紹介するやつを二つ作ったんですよ。
 それを学校の先生たちに聞かせたら、流石に『ひるのいこい』って番組は古いから知らなかったんですけど、『世界ふれあい街歩き』は知ってたんで、「面白い」と。
 副校長先生に話してみたらどう?って言われたんで話したら、「これ昼の校内放送で出来たら面白いね」って話になって、それで二学期が始まったんですけど、暫くしたら用務員室に校長先生が現れて、「なんか面白いもの持ってんだって? 僕にも聞かせてよ」って言うから聞かせたんですよ。
 そしたら「あなたって見かけによらず面白い事やるんだね」って話になって、一週間に一度くらい校内放送のディスクジョッキー担当してみたらって事になったんですよ。
 不定期でやってたもんですから、みんなからお便りが集まってくると、じゃあやりますって事になって、大体週末の土日に僕が家で収録をして、やる日を決めてから校内放送を担当する先生のテーブルの上に原稿を置いておくんです。
 トータルで13回やったんですけど。必ずイントロは、NHKの『ひるのいこい』っていう、懐かしいイントロから始まるんですよ。



多分、うちはNHKラジオ聞いてなかったんですよね

 ああ、そうなんですか。僕はリコーで仕事してる時、車でお客さんとこ行くじゃないですか。たまたまNHKかけてる時に、お昼にこれかかってたんですよ。

 そんな事で放送やってて、最後はお便りいっぱい来ちゃって、三十何通来たんで、三回に分けてやらせて戴いて、辞めるとき離任式っていうのしてくれるんですよ。その時に子供達がこういうの(寄せ書き)をくれたんですよ。
 内容的には、始め何をやってるのかわかんなかったんだけど、自分が先生に言われてお便り出したら、読んで貰えて嬉しかったって書いてあるわけですよ。それを貰いましてね、やって良かったなと思いましてね(笑)。


元祖テレビっ子

 私も生まれた頃にテレビがもう有りまして、ちっちゃい時からテレビばっかり見てまして、テレビっ子って言われてたんですよ。
 うちの姉に言わせると、こういうテレビ(下写真)を、私が生まれた前後に買ったらしいんですよ。ちょうど私が生まれた次の年あたりに発売された物らしいんです。うちのお袋に全然相談しないで親父が買ってきたらしいんですよ。これが家に着いた途端に、親父とお袋が大喧嘩。昭和33年くらいの話です。

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本当に出始めの頃に比べれば安くなってたでしょうけど、まだ高かったでしょうね

 高かったみたいで、まだ近所でテレビ持っているうちがどこにも無いのに、こんなの買ってきてどうすんだって話になって。姉に聞いたら大喧嘩になったそうです。
 

お父様のご職業はどんなものでしたか

 元々は大正13年生まれで、戦争の時に法政大学に行ってたんですけど、学徒出陣の時に引っ張られて、大陸の、中国に行って、中国で終戦の時にソビエトに抑留されまして、暫く強制労働させられて、最終的に共産主義の思想を植え付けられて帰ってきたらしいんですよ。

 で、 姉の話ですよ。お袋からはあまり聞いてないんだけど、それが下地で一生懸命働かなくても生活できるって考えになっちゃったみたいで、遊び人になっちゃいまして。


それなのにテレビを買っちゃったんですか(笑)

 何故かと言うと、結婚するまではどっかの貿易会社でもって、ちゃんとサラリーマンとして働いてたらしいんですよ。 それがお袋と知り合って、暫くはそこで働いてたんですけど、辞めて、商売をしたいって言うんで、お店を始めたんです。それが結構いい感じで儲かったらしいんです。
 で、お金が入ってくるもんですから、始めは一生懸命やってたんですけど、そのうち遊びたくなっちゃって、また新橋が近かったもんですから遊ぶ場所がいっぱい有りましてね。


でも抑留されてたんですから気持ちはわかりますよ

 だから、お袋がほとんどお店は仕切って一生懸命稼いで、親父がそれを全部使っちゃうというパターンで。 


そういう話ってあちこちで聞きますね

 昔はそういうの有ったんですよね。だから、うちの姉とつい一ヶ月くらい前にこのロイヤルホストで話した時に、うちのお父さんはべつに極道じゃなかったけど、本当に遊び人で、遊んでばっかりいたと。
 だから最終的には家を出てって、寂しい末路で亡くなったんだよねって話になって。

 そんな訳で結婚した当初は少し金回りが良かったのも有ったみたいで、親父が新しもの好きでこのテレビを買ってきて。
 この白黒テレビは結構長かったらしいんですよ。カラーテレビになるのが遅かったみたいで、うち。


その時に張り込んだものだから

 そうなんですよ。 姉に言わせると、他は随分カラーテレビになってるのに、うちはなかなかカラーにならなかったから、僕は昭和39年の東京オリンピックは、この白黒で見ました。


カラーテレビはいつごろ入りましたか

  おそらく45、6年頃じゃないですか。
 

うちより遅いかもしれないですね
記憶に残る一番古い番組ってなんですか 

 えーっとねぇ… 『お笑い三人組』とか…。 あと『危険信号』…。


その頃はもちろん木島さん司会ですよね

 ええ。あと桂小金治さんの『ポンポン大将』。
 あと、うちの親父が偽者役で出た『それは私です』。


どういう経緯ですか

 新橋で遊んでばかりいたじゃないですか。 内幸町のNHKが近かったんで、そこのプロデューサーが、カウンターでうちの親父と席が一緒になったらしいんです。
 それで話したら苗字が同じって事で意気投合して、 親父も口が上手かったみたいで、よかったら出てくれませんかって話になって出たんですよ。



この稿は 2016年8月11日に東京某所のロイヤルホストで伺ったお話を元に再構成させて戴きました。