小林正夫(こばやし・まさお)さん


昭和
35年 3月 日本大学芸術学部 卒業
    4月 大映       入社

主なテレビ作品:
「ウルトラマンタロウ」「ファイヤーマン」特殊技術
土曜ワイド劇場(大映映画チーフプロデューサー)



 
そもそもは大映の方という事ですが

 僕はですね、日大芸術学部を卒業したのが日高(欽治)と同期でしたから、昭和35年だったですね。

筆者注:
 小林さん、日高さん、小川よしあきさんの3人は、大学の同級生で、生涯を通じての親友であったという事です。 
 


それからは大映一筋という事ですか

 そうです。
 で、大映の映画が(昭和49年に徳間書店傘下となって)再開しましてね。営業がそれまで有った大映テレビ室(既に別会社として独立)と競合になりましたんで、私は大映本体の方のテレビを担当しておりましたんで、私の方は(テレビ室と関係の深い)TBSだけには営業かけなかったんです。
 (別会社となっていたものの)長年親しまれた「大映テレビ室」という名前と競合するというのは、私自身としても避けたかったので。


テレビで一番最初に手掛けられたものというとなんでしょうか

 テレビ朝日の『土曜ワイド劇場』ですよ。
 一話完結の話を作るのに、映画会社の方に話を持ってきてたんですけど。大映の方にもたまたま話が来ましてね。


その前に『ウルトラマンタロウ』と『ファイヤーマン』が有りますね

 それは大映の労働組合の闘争時代ですね。
 大映の『ガメラ』とか特撮やってましたから、私。
 それで大映の労働組合の方からですね、とにかく資金集めのために、特撮できる人を円谷の方が探してるから、なんとか行ってくれないかという事で。
 佐川(和夫)君なんかにいろいろ要領教わったりなんかしまして。
 円谷に僕の(学校の)後輩のプロデューサーがいたんですよ。熊谷(健)って言って。
 特撮はテレビは初めてだったんですが、ガメラとかで経験は有りましたんで、そんなに難しい事ではなかったんですが。 


ガメラシリーズはどの辺から参加されてるんですか

 第一作はやってないかな。他は二作くらいを除いてみんなやってますよ。
 二作くらいかな、他の作品についてたので、どうしても特撮に入れなかったと記憶してますけども。
 東京現像所の裏に大映の社宅が有ったんですよ。その当時で一番いいものを作ろうっていう事で、鉄筋コンクリートで4階建てで。4棟ありましてね。暖房が付いてるような。メートル法で出来てるようなマンションだったんですけど。
 そこに俳優さんとかスタッフとか、(大映球団の)野球の選手とか、みんな住んでました。
 『大魔神』は時代劇ですから京都だったんですが、その役者とか、そこに住んでる者なんかはみんな仲間でしたね。


永田雅一さんはやる事デカかったですね

 そうそう。プールだけは無かったですけどね。テニスコートとか有りましたから。


大映の最後の方はけっこう大変だったと思うのですが

 私は広報担当してましたから。労働組合の活動とか記録に取ってましたからね。大映の闘争記録っていう事で本になって出てますから。

映演総連 (編集), 大映労働組合 (編集)
労働旬報社 1979-02



ずっと映画でやってこられてテレビの仕事に違和感は感じませんでしたか

 幸いに一番最初の仕事(土曜ワイド劇場)が一話完結だったでしょ。
 変というのは、(映画経験者なら)誰でも感じるコマーシャルをどこに入れるかという問題でね。ロールを区切っていくとこが作品全体とは関係無く、なんだこれはという違和感は有りましたけどね。
 一番クライマックスのとこで切るわけですから。


資料では大映映画さんの土曜ワイド第一作は「東京上空2000メートル」ですが

 そうですね。村野鐵太郎(むらの・てつたろう)監督ですね。


音楽が(親友の)小川よしあきさんですが小林さんのご指名ですね

 そうですね。プロデューサーやってましたからね。
 担当プロデューサーはいましたけど、タイトルには名前は出てないんですが、会社と会社のやり取りの具体的な事は全部ぼくの方でやってましたんで。
 一応チーフプロデューサーとして仕事してましたから。


クレジットには出てないという事ですか

 そうそう。当時クレジットに名前を出すという事がそんなに意味あるとは思ってませんしね。
 担当プロデューサーが現場で一生懸命やってるわけですから。
 並行して何作もやってましたから、チーフプロデューサーとしてコントロールしなきゃならないもんで。
 それはそれは大変な。毎日毎日ウチに帰れないような、夜中にウチに帰るような、そういう作業が随分続きましたねえ。


長時間ドラマだから手間暇かかったでしょうが利益はそれに見合っていなかったんじゃないでしょうか

 僕ら映画興行打って大きな付加価値あげてましたからね。当時から見ると、なんか一つ請け負ってカスカスの利益を出して、そんな事はセコい話だなって感じでした。
 利益率は凄く低かったですねえ。


当時から局側もかなり予算を締めてたでしょうからね

 それに俳優本位でしたからね、作品本位でなく。どういう作品を作るかという事よりも、役者を誰にするかという。
 そういう事も勿論大切ですけども、そうやって役者を誰にするかという事で各社取り合いしてましたから。作品が役者の都合で一足遅れるとかね。そういう事はよく有りましたけどね。
 それを避けるために俳優座と組んでですね、優先的に仲代(達矢)さんとか、「昭和怪盗傅」なんかやったの覚えてますけど。
 まあいまだに思いますけど、テレビのやり方そのものが非常に良くないと。


大映の永田雅一さんは特に映画への思いが強い人でしたよね

 そうですね。(大映は)フジテレビに出資してたんですけど、大映の人間をフジテレビに出向させるという事は無かったですし、あんなものは電気紙芝居だと。あんなものに手を染めちゃいかんという事をしょっちゅう、社員総会でも言われてましたからね。


ですから当時の大映テレビ室というのは大映の中では異端のようなものですか

 そうですね。ですからその苦しみというのは、 大映テレビ室も随分あったと思いますよ。
 気の毒だなという事も有ったし、宇津井健さんの事(ドラマ『検事』途中降板事件)もね。
 野添ひとみさんのお姉さん(野添和子氏:山口百恵「赤シリーズ」プロデューサー)も、よくやってるなと思ってましたし。


やはり大映テレビ室も元々は仲間だという意識はお有りだったと

 有りますよ。ただ、彼らは彼らなりに非常に窮屈な思いをしてたんじゃないですか。 
 ただ、次の時代は必ずテレビの時代が来るんだという時代の流れを彼らは知ってましたからね。
 それで一生懸命そこで頑張ったんじゃないかなという風に思いますよ。


「東京上空2000m」の翌週が大映テレビの「白い野望のメス」というんですが

 あ、そう(笑)。


お互いに土曜ワイド劇場の中で張り合うという意識は無かったですか。

 いや、そういう意識は無かったですね、僕は。 
 テレビ室はテレビ室で別個の会社と思ってましたからね。


他社制作のドラマに関しても特に意識はしませんでしたか

 そうですね。それは営業の勝負で競っていくわけですからね。 
 テレビの世界を勉強するので精一杯でしたし、逆の意味で、なんか余裕が無かったのかもしれませんね。 


「東京上空~」は緒形拳さんが主演ですけど、これは監督が決めたんですか。

 そうですね。村野鐵太郎という監督と、僕は昔からずーっと一緒なんです。彼が監督する時には、僕が必ず就いていたもんですから。
 『雪の降る街に』という映画(昭和37年)を村野監督がやった時に、僕はチーフ助監督で、一緒に緒形拳を使ったりしましたから。そういう関係じゃないですかね。


そう言えば緒形拳さんは大映映画によく出てましたね

 昔は新劇の俳優を大映がよく使ってたんですよ。 
 
 
 
この稿は 2016年8月22日に電話で伺ったお話を元に再構成させて戴きました。